お元気さまです。わくワークの義(ヨシ)です。
福島の原子力発電所が水蒸気爆発したとき、50キロほど離れた街に住んでいました。
自宅から出ないように案内を繰り返す消防車が巡回していました。ガソリンもないので、避難を諦め、太陽光発電のある自宅で過ごすしかないと思っていました。
翌日、職場の先輩から「こどもを連れて今すぐ100キロ離れた方が良い」と電話で知らされました。自宅近くでもガイガーカウンターが振り切ったとも聞いていたので、急いでバイクのガソリンを車に詰め替え、避難を開始しました。ガソリン給油が期待できる街を目指し、宇都宮方面に向かうことにしました。
この時、高速道路は閉鎖されていると思って、一般道を利用しましたが、あとになって、避難と言えば使えたことを教えてもらいました。
峠を越え、茨城県のガソリンスタンドで、満タン給油ができました。
細かい記憶はありませんが、寒かったので、暖かい場所に向かおうと首都圏を迂回し、伊豆を目指しました。2日目は甲府に宿を取り、3日目のお昼ごろ富士山付近を通ったとき、放射能を計測しているような文部科学省の車両を見ました。なんでこんなところで放射能の計測をしているのだろうと不思議に思いました。
3日目以降、1週間ほど西伊豆のキャンプ場に滞在しました。もともとキャンプが好きだったので、道具も揃っていたし、避難生活自体を楽しむことにしました。
しかし、3月の伊豆は思っていたより寒く、キャンプ場オーナーのご好意で、キャビンを貸していただきました。
当時、福島ナンバーの車は、石を投げつけられたり、給油させないスタンドもあったとか聞きますが、私たちはそのような目にあわず、むしろ多くの方々のお世話になりました。福島から避難してきたことがわかると、食事を無料提供してくれたレストランもありました。そのレストランのオーナーは、原発地域に親戚がいて、安否不明とのことでした。
職場から戻ってくるように言われ、子供の学校も再開するというので、自宅に戻りました。
しかし、子供の中学校は、断水しており、通学路は津波が運んだ瓦礫が片付いていません。自宅も断水している状況で、弁当持って新学期を始めるというので、転校させることにしました。
真実はわかりませんが、この街は、子供を人質にすれば住民が戻ると考えて、そのようにしたという話が聞こえてきました。本当だとすれば残念なことです。
もっとも残念だったのは、のちに公開されたスピーディの情報によると、避難経路に風が流れており、ずっと被曝していたようです。
なんのための避難だったのか・・・残念でなりません。
当時の政権がパニックを避けるために情報を隠したとか、福島から人がいなくならないように隠したとか、米軍には、情報を提供し、空母が100キロ圏外まで離れたとか。いろいろな話が聞こえてきます。
税金を投じたシステムは、アクセス権限を初めから設定して欲しいです。国民に何も知らされないようなシステムは不要です。何でもガラス張りにする必要は無いですが、公開することで人命が救われるような情報は、誰が得ても良い情報ではないでしょうか。
スピーディの情報は、常にネットで公開しておく情報だったのではないかと思います。
寒い季節だったので、情報があっても実行できたかわかりませんが、北の方向である岩手県や秋田県、青森県に避難すれば被曝をさけられたようです。
こどもたちに何の影響も出ていないことを祈るばかりです。
私は、おかげさまで元気です。
目が悪くなったのは、被曝じゃなくて年のせいかな・・・
それでは、今日もワクワクな一日を!
チャオチャオ!
特別お題「今だから話せること」